鬱で落ち込む父に伝えた言葉。落ち込んでもいいんじゃない?

落ち込む出来事に焦点を当ててあげない
うちの父は鬱持ちだ。
完全に何かが出来ないわけではなく、動ける時は動ける。
ただ、昔ほどは活発さは無くなったかなと感じる。
二日に一度は何かに落ち込んでいて、
なにに落ち込んでいるのか聞いてみると、
いつも他の家の出荷物を見て落ち込んでいるらしい。
実家は苺農家で両親は言わずもがな苺農家をやっている。
パック詰めした苺を、集荷場に持っていくと
他の農家の苺が沢山並んでいるのをみて
「何故うちのはこんなに少ないんだろう」
と落ち込むらしい。

いや、うちのも結構多いで?

そんなに落ち込むのか?

たしかに他の家は色々立地やら人手やらが良いとは言えない。
うちのハウスは川などの水源から少し距離があるし、
土も父が苺を始めたころはかなり質が悪かったらしい。
それでも試行錯誤して十分苺が育つ環境になった。

人手という点では
正直60歳越えの両親と2日に1回手伝うくらいの自分では
そもそも
マンパワーというか若さのバイタリティが違うから仕方ないと思う。

というか、
収穫が著しく少ないわけでも
収穫した苺が引くほど小さいわけでもない。
なんなら結構大きい手を持つ私の手のひらくらいの大きさの物だって採れる。
味なんかは他の農家が出してる苺より濃くて甘いとまで言われている。

それを他の農家の方が量が多い????

こんなに収穫できてるのに?

隣の家の芝生を見て、良いなと思うのは良い

良いとは思うが、、、

たしかに昨日今日は、苺が日焼けでダメになるやつが結構あったが
(日光が強すぎると苺の表面がただれてしまって出荷できないものが出てくる)
それでも今日出した分は、ここ一週間の中でも結構な量だった。
それなのに父は「苺がならない」と謎の思考に囚われている。

ボケ祖父母の英才教育
父は一人っ子で、祖父母はボケていた。
つい最近までそこまで気にした事は無かったが
祖父母は控えめに言ってバカだと思う。
私が生まれた時も母は結構苦労をしたらしい。
あまりマイナスな事を書くのは好きではないが
何も考えないのは祖父の、
他人の家の芝生を見て「なんでうちのは。。。」
という思考は祖母の、
ボケた祖父母の思考を60年以上ボケた英才教育をすり込まれたサラブレッドな父は
なかなかその思考から抜け出せないのだろう。
でも、わざわざその思考を続けてやる必要はない。
何故かって?
父の人生は父の物で


ボケた祖父母の物でも、他の人間の物ではないからだ。

わざわざマイナス思考の海に自分からつま先から頭のてっぺんまで沈まなくてもいいのだ。

心と視点の向きを変える
結構な量の苺を収穫しているのに
「なんでうちはこんなに苺が生らないのか」
と謎の落ち込みを見せる父に私は
「いやいやいや、こんだけ生ってるやん?!」
と今日の出荷できなかった苺を見せる。
(日焼けがひどく、ただれ過ぎて
B品市場にも出せなかったものを食べようと思って持ってきていたものを見せる)
ざるに入ったそれはただれたところを切り落としても結構な大きさの物ばかりだ。
小さいものや青いものなど、食べれそうにないものは捨ててしまったが、
それでも大きいざる一杯の苺がある。
「今日出荷できなかったものだけでこんなにあるのに、
なんでうちは苺がならないんだろうはおかしくない?」
出荷できなかったものでも結構な量。
出荷用にパック詰めしたものは更に結構な量になっている。
見るべきは他の家の出荷量じゃなく、今採れた自分の家の量だろう?
今視点を向ける必要があるのは、今収穫出来てる量だし
今日収穫できたものなんじゃない?
原因も不明、解決法も不明の不安をわざわざグルグル考えるのは違うのでは?
見てる所が、出来なかった所なのがなんだか悔しかった。
これだけ、たくさんの苺が収穫できているのに
他の農家と違うと嘆いているのがなんだか違和感だった。

人間は頭で想像したものを実現する力がある。
現実にあるものは二度作られる。
人が想像したものは現実に存在する。
昔から言われていることだが、人は想像したものを引き寄せる力がある。
潜在意識とか無意識の領域なんて呼ばれる事もあるが
人が強く長く思い描いたものは、良いものでも悪いものでも現実に現れる。
念願のマイホームを手に入れたサラリーマンが初めて家に入った時に
なんだかここに来た事がある?と不思議な感覚に襲われた。
よくよく思い出してみると「こんな家に住みたいなー」と
子供のころに思っていたあの家そっくりだった話だったり、
有名な野球選手が、夢だったメジャーリーグに行って
泊ったホテルの窓から見た景色がずっと部屋に貼ってあった夜景と全く同じ構図だったり、
人は無意識まで刷り込まれた思いを引き寄せ、現実にする力を持っている。
だからこそ、在りもしない不安を一生懸命引き寄せようとする父に違和感と悔しさを覚えたし、
そんな潜在意識に刷り込んだ祖父母が嫌だった。
どうせ現実になるなら
父には60歳越えとは思えないくらい健康になって欲しいし、
周りの農家から頭を下げて教えを乞われるようになって欲しいと思った。

どうせ考えるなら楽しい事を
と言うことで、どうせ考え込むなら
来週抱えきれなくなるくらい大量に苺が取れてしまったらどうしよう
パック詰めがDXサイズだけで、しかも1パック8粒入りだけになったらどうしよう
他の出荷しに来た人たちに「どうしたらそんな大きくなるんだ?!」って詰め寄られたらどうしよう
とか、そういう嬉しい困ったことで悩んだ方が良いんじゃない?
って話をした。
人は想像したものを現実にする力がある。
現実にしてしまうのだ。
嬉しいことで悩むって話をしていたら、父の口元が気持ち弛んだ気がする。
まだまだ60年の英才教育は根深いかもしれないが
それを覆す潜在意識の力を見せてやる。

落ち込んでも良い
どうせ困るなら嬉しいことで困ろう
そういう話をしていたら口元が弛んだ父だがそれでもまた表情がふと曇る
それでも落ち込んでしまう。
カウンセラーさん(週一くらいで訪問カウンセリングをしてもらってるらしい)は
それでも良いと言ってくれるが、落ち込んでしまうことで思い込んでしまうらしい。
落ち込むのは仕方ない。と言おうとしたが「仕方ない」って嫌じゃない?
諦めてしまう感じ?あんまり好きじゃない
「仕方ない」じゃなくて「それで良い」の方がいいかなと思う。
ふとした時に落ち込んでしまう。それで良い。
それって、気持ちが上がっていたからこそ落ちたんだから。
落ちたら今度は上がるしかない。
上がっちゃうな~って困ればいい。
階段の登り方は知ってるじゃない?
降り方も知ってるわけだ。
降りてきたなら、また登ればいい。
落ち込んできたら、降りてきたら、降りてもいい。って
まずは降りてきた自分を認めて、許してやればいいと思う。
頑張ったんやなー、お疲れさん。ありがとうってねぎらって
休んで元気になったらちょっとずつ登ろうなーって
自分の事をよく見てるのは自分で
自分の声を一番近くで、一番聞いてるのも自分なんだから。
今日も生きててくれてありがとうっていつも言ってあげたら良いと思うんよ。

今日も起きれたよ。ありがとう。
今日も生きててくれてありがとう。
動いてくれてありがとう。
息をしてくれてありがとう。
感謝を伝えて労ってあげれば、自分はちゃんと答えてくれるよ。
だって、自分だもの。
世界で一番自分を愛してあげても良いと思う。

父にはこれからゆっくり、自分を許す事を教え込んでいこうと思う。
このブログを読んで、自分を許しても良いかな。って思った人は
今からでも、自分に「ありがとう」って声をかけてあげると
心が喜ぶと思うよ。

最後に、こんな長い文章を読んでくれてありがとう。
明日も良い日になりますように

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